劣等感

未練を断ち切ろうとした。人との距離を深めることを諦めようとした。遠ければ遠いほど、接することは楽になる。いい顔ができる。自分のだめなところをさらけ出さないですむ。その孤独に耐えて、そのパワーを違うところにむけられると思った。けど違った。諦めるのは、いい顔をしようとする自分だった。さらけ出すことを恐れる自分だった。自分より心の深い人に、迷惑をかける勇気をもたない自分だった。人の過ちや失敗を許すことは得意なのに、他者に慈愛をかけられる自分が許せなかった。目上の人なら許せた。けれど同じ立場にいる、最も対等でいたいと思う人から与えられる情けは、何よりも悲しかった。それを与えられる自分が情けなかった。対等でいたいと思った相手は、自分にないものをたくさん持っていた。明るい、人から好かれる性格、かわいい笑顔、人の痛みをわかる心、頑張る姿、外見もいい、運動もできる、頭の回転は速いけど、少し抜けているところ。異性からも同性からも好かれた。慕われた。可愛がられた。この環境になってから、いつもこの負い目と闘ってきた。これまでも、その人の優しさに救われてきた。そしてその人のことを好きだと思う反面、いつも自分という存在の置き場の無さを感じ、しかしそれに蓋をして、見ないふりをしてきた。けれどもう、耐えられなくなった。離れよう、負い目を感じないぐらい遠くの存在にしよう、そしたら自分は自分でいられる、そう思った。そして離れた。この環境の中で、少し距離をおいた。その時何も言わずに離れたこと、そして離れ方でも不快な思いをさせてしまったけれど、そこに配慮できるような自分ではなかった。その結果、自分は一人で過ごすことが多くなった。その人から離れることは、他の近い人たちと離れることでもあったから、喋る機会がかなり減った。喋らないというのは、思った以上に心の負担を大きくした。一人で黙々というのは、息抜きがうまくできない。たとえ息抜きに音楽を聴いたとしても、運動をしたとしても、晴れない。またそんな鬱々とした気持ちの側でその人が過ごしていて、こんなにも良い人を身勝手に離した罪悪感、そして離した上で見当たらない気持ちの置き場、なくならない自分への失望感。埃が積もっていくように、何かが自分の中に少しずつ、着々と積もっていった。何か感情の発露を見つけないとまずいと思った。その一つとしてブログをはじめた。けれど、何かしらでその埃が少し払われても、またすぐ積もっていく。自由になったはずなのに、自由じゃない。息苦しい、閉塞感、何かに縛られている感覚。もう抜け出したい、と思った。やっぱり結局仲良くしたい、前みたいに笑いたい。けれどまた、情けをかけてもらうのか、対等でいたかった自分は、大人が子どものちっぽけな意地を全部許容するように、その人の優しさに許されてしまうのか。そしてまた、比べて落ち込むのか。それならこのままの状態で、意地をはりっぱなしの状態で、さびしさや息苦しさを持ったこのままの状態で、それをエネルギーに変えて頑張った方がいいのではないか。しかし実際経験してみて、そのエネルギーはひどく自分を疲れさせてもいる。自分はどうしたらいい。